「危機管理」の春に母を想う

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桜が満開の東京。
3月25日夜「この週末は不要不急の外出自粛」との都知事記者会見があった。「感染爆発  重大局面」と書かれたフリップも掲げられ、その2日前に都知事が口にした「ロックダウン(都市封鎖)」が頭をよぎったのか、都内ではカップラーメンなどが品薄状態になっているらしい。


いわゆる「買い占め」が高齢者中心に起こっているとなると、昭和49年の「オイルショック」でトイレットペーパーが品薄になった、あの体験が頭をよぎっているのではないかと思う。


そういえば実家ではそうした騒動は全く覚えがなかった。テレビで買い求めに殺到する買い物客の映像を見て、唖然とした記憶はうっすらあるのだが。
母がちゃんと備蓄していたのだろうか?


母は太平洋戦争終戦時、満州(現中国北東部)からの引き上げ経験がある。当時11歳。教員だった祖父と祖母(母の父母)とともに一男六女の三女として現地に暮らしていた。お手伝いさんもいて、恵まれた環境だったようだ。


終戦でそれは一変する。
以下は母から以前伝え聞いた話である。


敗戦国となった日本に、北からソ連軍が進行してきた。当然敵国の日本人は命が危うい状況になり、逃げるか殺されるか捕虜となるか、となった。
ただ祖父の人間性だったのか、満州の現地の人は「日本人は憎い。ただ鈴木先生(母の父)のところは別だ。」と出来る限りのことをしてくれたそうだ。とはいえ子供7人連れての満州引き上げは容易ではない。一番末の叔母は危うく中国残留孤児になりかけた。だが祖父が、
「(子供達)7人全員連れて帰る!」と強い決意のもと、ようやく日本に帰ってこれたそうだ。道中、普段子供たちのおやつとして置いてあったお菓子が食いつないでいくのに役に立ったということだった。


だからという訳ではないと思うが、何か足りなくなって慌てて買いに走る、ということはなかったように思う。長じて私や弟が夜遅くにおやつや夜食を食べていても「真夜中に大地震が起こって、食べたくても食べられなくなるかもしれないから」と寛容だった。

 


今回のウイルス騒動では、1月末に都内に勤めている次女から「マスクが売り切れてる。そっちはどう?」というメールからだった。近所に買い物に行くと、ホームセンターには数量制限はあるものの棚には潤沢にあり、いつも行くスーパーは何の変化もなかった。インフルエンザや花粉症の季節でもあるので、常時一箱買い置いてはあったが、念のため少し買い足した。その翌日自宅周辺でも店頭からマスクが消えた。
次女はその後アルコールジェルの小さなボトルを家族に配って、「私の危機管理能力もまんざらじゃないでしょ」と得意げだった。もしかしたら私の母からの隔世遺伝か?いや自分もそうかもしれない。


買い占めではなく、必要最低限の備蓄を。そしていざという時、支え合うネットワークを。
欧米の首脳の中には現在を「戦時中」と評する人もいる。現地の映像を見るとそういう表現も大袈裟とは必ずしも言い切れないが…。
未だ事態は流動的ではあるが、不用意に怖れることなく、判断・行動していきたい。