いよいよまた半年間の心の学びが始まる。こうした心の学びを言語化するのには難しい側面もあるのだけれど、昨年の学びの中でなかなか言葉にできなかったものがある。それをここに記しておく。
それは2018年7月の第3講、第2チャクラの学びであった。
その回は仕事の都合で、本来自分が登録しているのとは別のコースに参加した(カリキュラムは一緒)ので、参加者の半分以上は初対面、という状況だった。
休憩時間直前、6〜7名のグループセッションでのクライアントと言い渡されていたのが、急遽、講座主催の岡部明美さんが受講生全員の前でやる公開セッション、通称「大まな板」のクライアントに切り替わったと明美さん自ら言い渡しに来られた。
準備しながら「やっぱり来たか」という思いが…。30代で未亡人となった自分は、この第2チャクラ〜パートナーシップをつかさどるチャクラ〜におそらく様々な傷を抱えていて、まだそれが癒えてない、ということか。
約30名の受講生全員が見守る中、カウンセラーの明美さん(以降LPL式にあけみちゃんとする)と向かい合わせに座る。何人か見知った顔はあったが、受講生の席の方はなかなか顔を向けることができない。 主訴(相談のテーマ)として、その前の座学も踏まえてまとめたものを話す。
自らの死期が迫る中、ただ一度だけ亡夫が取り乱したのは、がんセンターの婦長に対してだった。なぜ妻である私ではなかったのか。そんなに信頼されていなかったのかと思うと情けないし、憤りすら覚える
というもの。多少感情は動いたが、例によってほぼ淡々と話す自分。
ひと通り聴いたのち、あけみちゃんはエンプティチェアという手法を使って、夫と私を対峙させた。向かいの空の椅子に夫が座っている(と想定する)。そこに向かって私は言いたかった思いを放つ。とはいえそれは激しいものにはならない。言われても私は何もできなかっただろう。がんセンターの婦長さんなら、プロとしてしっかりと受け止め、死期迫る患者の苦悩を和らげるすべも知っていることだろう。
つくづく自分は無力だ。
結局救えなかった。
次にその向かいの席に、夫として座り、今まで私が座っていた空の椅子に妻である私を見、カウンセラーのあけみちゃんの問いかけに答える。
「あなたの奥様はこうおっしゃっていますけど、それを聞いてどう思いますか?」
信頼してない?いやそれとは違う。
確かに婦長なら仕事として受け止めるだけだから…でもそれよりも…
妻の記憶に残る最後の自分の姿は、やはり病気になる前のクールな自分でいたかった。取り乱した自分の姿を妻の心に焼き付けて、悲しみをさらに妻に抱えさせてこの世を去るのは忍びない。
妻にはクールなままの自分の姿で覚えておいてもらいたい。
そんな思いが湧き上がり、言葉にした。
もちろん夫の真意は今となってはわからない。でもこれらの言葉がなぜか腑に落ちた。
今生を去った夫の、良い意味のプライドと、奥に秘められた優しさだったのだ。
周囲からすすり泣きが聞こえる。
でもそちらを向いて確かめる勇気はなかった。
あけみちゃんから、夫の代役を一人選んで夫の椅子に座ってもらうよう指示があった。全くの初対面だったが、もしそうなったらこの方に夫の役を、と思っていた方にお願いした。夫として座ってもらい、あけみちゃんから「あなたはこの妻を見てどう感じますか?」と声掛けがあった。その人の口をついて出た言葉が、
「愛おしい」
20年近く「もうどこにも夫は居ない。居ない。どこにも居ない」という思いでギチギチになっていた自分の内面を、その言葉がゆるめてくれ、スペースを空けてくれたように感じた。
「亡くなった人はあなたの心の中で生きている」とよく言われるが、単なる慰めだと思っていた。でも、心の中というよりは、魂としてそこにいるような感覚を覚えた。よりスピリチュアルになってしまうが仕方ない。感覚の話なので。
講義全体が終わってから、ロビーで荷物を整理している私に、何人もの人が「さっきのセッションは良かった」「心を動かされた」と声を掛けてくださった。初めて会う人もいた。それも私にとっては驚きの体験だった。
それから2か月ほどして秋彼岸。夫の命日を迎えた。いつもなら様々な後悔や「もし生きていたら」という詮無い想いがしきりに湧いてきて、下手をしたらそれに飲み込まれてしまうのだが、その年はまったくそれがなく、穏やかな気持ちで過ごすことができた。もちろん、抱えてきた罪悪感や寂しさなどの感情が一掃されたわけではない。ただ魂が「ある」と感じることで、負の感情が悪影響を及ぼすことはほとんどなくなった。
もちろん深掘りすることで出てきた感情もある。今も思い返してこの文章を綴っているだけで、感情が結構動いているのがわかる。
さて。これから始まる13期での学びでは何が起こるのか。そして何を得て何を手放し、自分はどこへ向かうのか。
そのプロセスは全て正しい。