例年通り、年度替わりでバタバタしているうちに終わろうとしている。
おまけに気候の変わり目についていけず、体調崩して月末のピークに戦線離脱する始末。
今年はじめの様々な決心や取り組みも、なぜかぐらつきを感じてぐるぐるしていた月だった…。
連休後半でもろもろ立て直そう。
例年通り、年度替わりでバタバタしているうちに終わろうとしている。
おまけに気候の変わり目についていけず、体調崩して月末のピークに戦線離脱する始末。
今年はじめの様々な決心や取り組みも、なぜかぐらつきを感じてぐるぐるしていた月だった…。
連休後半でもろもろ立て直そう。
素晴らしい青空にひかれて、所用の合間に明治神宮を訪れた。
きっかけはこちらのとしさんのブログから↓
http://ima55.com/archives/1077
表参道の交差点から緩やかな上り坂を歩く。日曜日とあって結構な人出だ。
大鳥居をくぐると、都会の真ん中とは思えない心地よい風が森を渡ってくる。
とはいえ、耳を澄ませれば山手線の走る音や、原宿駅の発車メロディが聞こえてくる。不思議な空間。
本殿は2020年に鎮座100年を迎えるため、屋根の葺き替え中だった。工事の覆いに建物の絵が書いてあるのは、観光客をがっかりさせないようにとの配慮だろうか。4箇所お詣りの場所が設けられていたが、それでも10分ほど並ぶことになった。
としさんオススメの御陵には時間の関係上行けなかったが、緑が美しい季節にまた訪れてみたい。
新年度入り初日は、真冬のような土曜日。例によってあっという間に今年も4分の1が終わってしまったのだが、この年度替りは私にとって大きな区切りになった。
ちょうど一週間前、次女が大学を卒業した。請われて卒業式に出席したが、これで子供たちは2人とも社会人に。扶養される立場からも卒業となる。
初めて来たのだが、さすがマンモス私大、キャンパス内にこんな場所が(授業料を4年間払ってきた身では、これ本当に必要なのかと複雑な気分w)
ドトールなのに、店員さんが英語でしか話さないintermational cafe
当の本人は友人を見かけては「きゃー、〇〇ー♪」と駆け寄ってスマホで写真を撮りまくり、そこに彼氏も巻き込んで…
まあ、友人関係には本当に恵まれていたなー、と実感した。
無事に卒業式(学位授与式)も済み、レンタルの袴も返却して帰途につく。
親の立場は変わらないのだけど、一つ大きな責任を果たせた感じがする。まあ、子供本人の努力?もあるけれど。
人生の次のステージに、親子それぞれ足を踏み出して行くんだなあ…。
10日間のリフレッシュ休暇が今日で終わる。
次女が就職でこちらに戻ってくるので、自宅の片付けと引っ越し(なんと車2台で自力でやった)がメインで、その間に映画見て、展覧会行って、友達と一緒に行きたかった店を訪れて、読書して、ジムでヨガやって、マッサージ&カイロプラクティックに4回行ったという。
旅行のひとつもすればとも思ったが、ずっと自分に問いかけていたのは
「これからどんな暮らしがしたいのか」
ということ。
目覚ましもかけず、できるだけ心の欲するままに日々を過ごして出てきた答は、
「穏やかな気持ちで暮らしたい」
だった。
また明日から仕事の場に戻るけれど、出てきたこの答とどう折り合いをつけていくのだろうか。
今は、流れに任せてみても良いかと思っている。
折しも今日は春分の日…西洋占星術では一年の始まりという巡り合わせだ。
6年目のその日は土曜日になった。
朝、習慣でつけているテレビからは、東北で祈りを捧げる人達の姿。
家族を、親しい人を失って、ただただ繰り返される「無念」という言葉。
前を向いて歩き出している人達の姿も映し出された。
そして夜の特番では、様々な課題が未だ多く残されていると報じられている。
複雑な想いが心に残った1日だった。
政府の言うところの「働き方改革」の一環か、突如登場した感の「プレミアムフライデー」
毎月最終金曜日は午後3時に退社して、旅行や外食と消費拡大と、労働時間の短縮をはかるのだろうが、
「あ、うちの会社じゃムリ」とニュースを見て思っていた。現に第一報聞いてからも半月くらいなんの音沙汰もなかったし。
それが一週間前ほど「完全定時退社の『プチ・プレミアムフライデー』として実施されるとお達しが…。
本番当日はなぜか皆朝からソワソワ…。
それでも仕事が始まれば、月末恒例?いつもに増しての忙しさである。
ボスの定時10分前の「はい、今日はこれで解散!お疲れ様でしたー!」でバタバタと会社の外へ出る。
まだ空が明るい…。
帰宅してたまった家の用事でも片付けて…と当初は思っていたが、不意に思い立って都内某所で運営している小さなスペースのメンテナンスに向かった。
いつもの週末とあまり変わらない様子だが…なんとなく気持ちにゆとりが生まれたような。
こうしてブログも書けたことですしw
この春に末の子が社会人になる。
こういう言い方をすると身もフタもないが、扶養家族としてお金がかかる方から稼ぐ方へと変わる。
そうなると、自分に必要なお金の額も変わってくるのだろう。
もともと「あれば使うがなければそれなりに」という感覚だった。健全な金銭欲に基づき、バリバリ稼げば良いのだろうが、「生活できればそれで良い」というレベルに落ち着いてしまっている。まったく良いのか悪いのか。
「自分にとって幾らお金が必要か」
それは裏返せば「どういう生活をして、何をしたいのか」という問いになる。ある意味「命の使い方」でもある。
自分の夢・志(こころざし)あるいは野望の実現には、何十億、何百億あっても足りない、という人もいるだろう。
多くの人が関心を持ち、使わない人は皆無であるにもかかわらず、あまりお金について正面から向き合うこともなかったような気がする。
ちょっといろんな角度から、お金について考えてみたいかと。